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信頼関係というものは、「見えないところでこそ、しっかりとした仕事をする」を前提にしなければならない。それは、人と人、企業と顧客、経営者と従業員、国家と国民いずれの関係でも言えること。
ライブドアの行為は、法律的にグレーゾーンだから可能だったわけであるが、商法に規定されてないことなら何をやってもいいことにはならないだろう。 グレーゾーンだからこそ、関係者や企業のセンスが問われるのです。企業が利益追求のためにだけ存在しない理由がそこにあるのです。言い換えれば、利益追求のためなら何をしてもいいことにはならない、ということです。企業を成り立たせているステークスホルダーの満足や企業価値は、グレーゾーンに対する企業(経営)センスの有り様で決まるのかもしれない。 こんな言い方も成り立つ。 明文化したルールで企業行動の限界を逐一記述し尽くせないとすれば、あいまいに見えるのりしろは倫理とフェアプレーで埋めるのが市場主義下での経営だと。 凍る夜や六本木ヒルズが星落つる (文句)
立ち上げたまではよかったのだけれど、1年余りのご無沙汰をしてしまいました。
昨夜は、変な夢を見てしまった。 やくざに拉致された、外国人(白人)の親子(父親と幼い男児)が解放され 駅(どこかは分からない)の構内に(妻が待っていた?)戻ってきた。 親子とも裸体(薄汚れている)。 父親は憔悴しきっているようだ。 夢の画面からフレームアウトして目が覚めた。 この夢がどのような意味をもつのか分からないが 私は、やくざへの憤りと、親子の拘束時の悲劇を思った。 しかし、その詳細へ思考が及ばないように目を覚ましたようだ。 ポイントはここなのかな。 昨年来、記憶にないほどの大雪が裏日本を襲って 100人を超える死者を出している。 何かの前触れか。 解毒するごと今朝の夢雪落つる (文句)
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 飯田蛇笏
白梅のあと紅梅の深空あり 飯田龍太 俳句の血統は引き継がれるのだろうか。 うえ二つの句は、名前の通り親子の作である。どちらも骨太で風格が感じられる。素人の私が感じてしまうくらいだから、プロからも支持されるのはもっともである。 それにしても親子でそれなりの評価を受けるまでになるには大変であろう。特に龍太の苦悩は想像に難くない。しかし、蛇笏に負けまいと修業し、追いつかないまでも近くまで来ていると思う。 龍太は蛇笏の「雲母」を継承したが、あるとき廃刊にしてしまった。と同時に、俳句を作ることも止めてしまったらしい。長谷川櫂氏はそれを、胸がすっとするほど速やかで鮮やか、と表現しているが私にはそう思えない。 原因のひとつを俳句の切れのような人生観としているが、そうだろうか。 龍太には引き継いでくれる子供がいなかったからではないか。彼の家族の何も知らない私が想像を超えていますが、何となくそんな感じを受けます。仮に存在したとしても、龍太のおめがねにかなわなかったのだろうと思う。飯田というのはそういう厳しい家系なんだと思いたい。 昨年、稲田汀子は「ホトトギス」の編集長にサラリーマンの息子を指名した。これはこれで高浜虚子の血脈が続くわけなので、めでたい。 いずれにしても俳句や同人誌が、あたかも世襲制のようになっては問題があろうと思う。俳句界に、芭蕉の言う「反骨」が消えないことを祈るばかりだ。
鴬や餅に糞する縁のさき (芭蕉)※縁は木偏
権威にへつらい常識に惑わされるのが人の常と申しますが、いかがなものでしょうか。 皆と同じくしたほうが生きて行くには都合がよいのでしょうが、自分が死を意識するような年齢になってくると、そうでないことの意味が鮮明になってくる。 こぞって褒め称える異様さに、気分を悪くするくらいの見識は持っていたい。 芭蕉はこの句で反骨の精神をみせている。俳句の俳には、権力や常識にしばられず自由に表現する滑稽さが含まれているはず。和歌の持っている権威にたてついた、鴬の糞である。 私は何に反骨すればいいのだろうか。
細雪妻に言葉を待たれをり (石田波郷)
戦後まもない頃の句である。焼け野原の東京に戻った夫と妻。これからどうしますの。 厳しいですね。 男が責任をもって事にあたったのは、いつの時代までなのだろう。 いつの時代でも潔しとしていたわけではないだろうが、 今に至っては男は逃げ腰である。 かくいう私も弱腰で他人のことを笑っている場合ではないのだが…。 責任を取るということがどんなことなのか。 相手を満足させれば、それで責任を取ったことになるのだろうか。 どんな答えであれ、相手にとっては責任を取ったことにはならないのだろうし。 そもそも、こちらに一方的に非がある場合はどうだろう。 さらには、相手が妻だったりするとややこしい。 それも黙って待っているタイプの場合、手だてを失ってしまう。 大寒や昔の話今に出し (文句)
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